真田氏関係史跡・文化財説明
1 沼田城跡
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰が約3年の歳月を費やして築いた。当時は蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。築城して48年後の天正八年(1580)に、武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正十八年(1590)に昌幸の嫡子信幸(之)が沼田領二万七千石の初代城主となり、その後五代91年間の真田氏の居城となる。また、慶長年間には五層の天守閣を建造し、城を核とした町割がされるなど、城下町としての形態が完成した。
天和元年(1681)に真田氏五代藩主信利が江戸幕府に領地を没収され、翌二年一月に沼田城は、幕府の命により完全に破却され、その後の天守閣の再建はされなかった。
その後、本多氏が旧沼田領177カ村のうち46カ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し、屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。
2 城鐘
寛永十一年(1634)に沼田藩二代藩主真田信吉が沼田で鋳造させ、沼田城三の丸の楼に掛けて時報に用いられた。天和元年(1681)に真田氏が改易となり、城破却の際、堀に埋められるところを平等寺が譲り受け、その後、明治三十一年(1898)頃から沼田町の時鍾となった。「この鐘の音は領内領民を安らかにし、領主の長久を祈るもの…」という意味の鋳造銘と平等寺の梵鐘となった由緒の補刻もあり、美術的にも優れている。
3 沼須城跡
天正九年(1581)六月、真田昌幸は沼田へ戻り、家臣の藤田信吉は片品郷の内沼須の城を与えられた。沼須から岩室、高平、生枝、古語父、生品、発知、秋塚、奈良原で三百貫文である。藤田は倉内に在城し、妻子は沼須の城にいた。と加沢記にある。ここにあった金剛院という寺を宇礼野に移し、森下、阿曾両城のつなぎの城として築いたのであろう。翌天正十年、北条方の夜襲をうけて阿曾の城をのがれた金子美濃守は、この城にたどりついたというのが繋城の任務をよく示している。
4 大蓮院殿の墓
大蓮院は本多忠勝の娘で名は小松姫といい、家康が養女にして、天正十七年(1589)に真田信幸(之)に嫁がせた。
天正十八年七月に信幸(之)が沼田城主となり、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦には徳川方についた。西軍につくことになった父の昌幸、弟の幸村が佐野犬伏から沼田に帰る途次に沼田城を訪れた際、城を守り入城を拒んだことで女丈夫とうたわれた。元和六年(1620)に病み、二月に療養のため江戸から草津に来る途中の同月二十四日武蔵国鴻巣で没した。48歳。同所で火葬して分骨し、同所の勝願寺・沼田の正覚寺・上田の芳泉寺にそれぞれ葬られた。
5 真田河内守信吉の墓
屋蓋に真田家の紋「六連銭」を刻み、威厳と風格がある。真田信吉は、沼田藩初代藩主真田信幸(之)の嫡子で、母は大蓮院。元和二年(1616)に信幸(之)が上田に移った後、二代藩主となる。寛永十一年(1634)十一月二十八日に江戸屋敷で没した。40歳。遺骸は沼田へ送られ迦葉山で火葬し、天桂寺に葬られた。
6 慶寿院殿の墓
慶寿院は沼田藩二代藩主真田信吉の側室で、五代藩主真田信利(信澄)の母である。寛文七年(1667)に本隆寺を改築して、慶寿山妙光寺と寺名を改め、自ら開基となり、寛文九年五月二十七日没した。
7 真田信守の墓
真田信守は、沼田藩四代藩主真田信政の子。沼田で出生。又八郎。
「沼田記」に「正保二年(1645)六月二十三日、夜裏門二階にて弟大学および佐久間善八を害し自害す」とある。一歳年下の大学信武と争論の後、殺傷して自刃した。
8 真田信武の墓
真田大学信武は、沼田藩四代藩主真田信政の第三子。沼田で出生。
正保二年(1645)六月二十三日夜、城中にて兄の信守に殺傷された。
9 伝・真田信利の墓
沼田藩五代藩主。寛永十二年(1635)生まれ。寛永十六年(1639)六月二十日三代藩主熊之助の遺領の内、利根郡内で五千石を分与される。明暦二年(1656)十月沼田藩主となる。寛文二年(1662)から石高制による領内総検地を実施。
天和元年(1681)十一月改易となり、出羽山形藩(奥平家)に配流。元禄元年(1688)正月、宇都宮藩(奥平家)で病没。龍華院弥勒寺に埋葬されたといわれる。
10 浜松の局の墓
沼田藩四代藩主真田信政の側室。明暦元年(1655)没。浄土宗東源寺開基。
11 加沢平次左衛門の墓
加沢平次左衛門は、沼田藩五代藩主真田信利の家臣である。元和元年(1681)十一月に信利が改易後、江戸幕府の上使から沼田城の諸事について尋問を受けて詳細に供述した。後に、川田城跡の一隅に隠棲し、元禄五年(1692)五月二十八日に没した。65歳。
加沢が生前に記述した「加沢覚書」は、後世に「加沢記」と称し、利根沼田・吾妻郡を中心とした戦国時代初期から天正十八年(1590)までの歴史を調べるうえでの重要資料である。また同人が記述した「沼田領品々覚書」は、真田改易当時の沼田領の諸般が記されている。
12 戸鹿野八幡宮
戸鹿野八幡宮は沼田城主代々の守護神であった。沼田城主沼田顕泰が享禄三年(1530)八月十五日に後閑八幡宮を迎えて現在地に祀り城の守護神とした。城主が苦戦した際に、山鳩多数が敵陣上空を舞い敵を混乱させて勝利をおさめた地ともいわれる。天正八年(1580)に真田昌幸が出陣に際して祈願して以来、代々武神として崇敬された。境内には信州伊那郡上戸村の石工による亀甲積みの石垣・大鳥居をはじめとした多くの石造物がある。
13 海野塚
真田昌幸は、小田原北条氏が藤田信吉に守らせていた沼田城を天正八年(1580)六月、手中に収め、真田一族の海野能登守輝幸を二の丸、藤田を本丸城代に、金子美濃守を執事に据えて、九月に甲府へ赴く。輝幸の兄の幸光は岩櫃城代であった。この兄弟をねたむ者の「海野は北条と通ずる」との讒言を信じた昌幸は、弟の信尹に命じて先ず幸光を急襲して討ち、直ちに沼田城に入った。追手に追い付かれた輝幸は、真田の検視役・田口又左衛門と沼田一の豪者・木内八右衛門を一太刀で討ったが、嫡男幸貞と「無益の殺傷はこれまで」と刺し違えてこの地で自刃した。
海野父子をここに葬り、海野塚と称した。
14 奉納灯籠
沼田藩五代藩主真田信利(信澄)が、三光院に献納した石灯籠。寛文四年(1664)八月十八日の銘がある。
一説には、信利は寛文三年、三光院住職に十面観音像を寄進をするよう申し入たが、拒絶された。信利は十一面観音の祭日に参詣の妨害をしたところ、その年、城内に疫病が流行し、信利も病んだ。気を悩ました信利は、観音堂を建て石灯籠2基を献納。夫人は、木彫の白馬2体を奉納したという。
15 千手観世音菩薩坐像(真田観音)
像体・台座・厨子ともに漆箔の精巧で壮麗な像である。頂上仏・脇手などは、はぎつけてある。卵形の光背に巧みな技法がみられる。
この千手観音は、寛文三年(1663)に沼田藩五代藩主真田信利(信澄)が、沼田城の鬼門除けとして、月夜野にあった常楽院を幕岩城跡に移し、この千手観音を本尊としたことから「真田観音」と呼ばれた。
16 絹本著色地蔵十王図
地蔵菩薩を中幅にして、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の十王図を左右五幅に描いてある。絹本、極彩の仏画で、寛正二年(1461)の作で優れた絵師の筆によるものであろう。秦広王の幅に「寛正龍集辛巳(1461)化主祖春」の銘文がある。伝承によれば、真田氏初代沼田藩主・真田信幸(之)の夫人・大蓮院(本多忠勝の娘で徳川家康の養女である小松姫)が正覚寺へ寄進したといわれている。
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